ブログ更新自体は3年ぶりとなります、フランです。Twitterでは時々自分の意見を述べたり、スペース機能を用いてlive発信をしたりしておりましたが、ブログについては完全にさぼっておりました。
更新頻度が劇的に増えるかと言われればその限りではないですが、時々このように執筆しようかと思っているので、皆様も是非茶々をいれてあげてください。
本内容は、2023年6月17日にスペースで発信した上記タイトルの内容をまとめたものになります。スぺ―スで発信した内容が主となりますが、口頭でのlive発信は、どうしてもその場の流れを汲んで発信内容を流動的に変更していること、そこに論理の破綻を起こす可能性があるため、今回文章としてまとめることとしました。(スペースでは3時間程度発信していました。バルサミコには少々話す内容を聞いていましたが、その他は全て完全アドリブでした。)
① 理論と理屈について
本ブログは2017年から、「バルサミコ酢の美味しさを語る」が2016年頃から開設されました。卓球技術の言語化、ひいては各技術を包括する理論の構築を目的としたブログでした。起源論を唱えるつもりもないですし、実際起源ではありませんが、開設当初はそのようなアプローチで考察を深める方は少なかったように思います。
最近はネットを用いて安易に様々な知識を得られることができ、それに伴って卓球の技術/指導を論理的に説明しようとする方が非常に増えました。主観ですが、これは現代人の傾向の一つと思われる「効率化」という観点から生まれた流れなのかと感じています。効率よく普遍的に教えようとした際に主観的な視点のみならず客観的な視点からアプローチする。その客観的な視点の主になるものが、物理学などの「科学」となることは当然の流れだと思います。スポーツ科学分野が近年急速に発展しているということも、その流れの背景にあるのでしょう。
ただ、その中で「効率化」を過度に重視するあまり、従来の主観的な視点を重視する指導法(いわゆる感覚派)を下にみてしまう方が一定数出現してしまいました。
科学的に説明できる事象(理論派)なのだから、主観的に語る感覚派の手法は時代遅れだ/間違っている(特に主観的な指導の内容が自身の主観と一致しなければ尚更)
これが直近で話題になっている理論派 vs 感覚派 の大まかな背景だと思います。
そもそも「理論」とはなんでしょう?類似した言葉として「理屈」がありますが、これとの違いはなんでしょう?
https://chigai-hikaku.com/?p=15698
このHPによると、理論は「個々の現象を法則的、統一的に説明できるよう、筋道を立てて組み立てられた知識体系」、理屈は「物事の筋道、道理」と記載されています。3次資料を基にしましたが、この意味合いで特段問題ないでしょう。
ここでなぜ「理屈」という言葉を出したかというと、世に出回っている卓球理論のほとんどは卓球技術を説明するための理屈に過ぎないと考えるからです。
巷にあふれている卓球理論のほとんどは一部の技術のみにfocusをあてたものであり、体系立って説明しているものとはほど遠いものになります。あくまで「一技術を科学的に説明しようとしているもの」に過ぎず、そもそも卓球の各動作を体系立って説明しようとアプローチをしている方がほとんどいないのです。比較的理論的に説明しようとしているものとしては、4スタンス理論や平岡氏が提唱するCC理論やスパイラル理論くらいでしょうか、もちろん我々の3hit理論も体系立って説明するスタンスをとっております。
理論の作られ方として、非常に簡易的にまとめると、
机上論 → 実証 → 理論の構築
の流れになるかと思います。そして理論として発展させようと思うと、各事象の全てを説明する必要があります。つまり、理論派が否定する主観的な事象であっても、それを包括するように説明しようとしなければ理論と呼べる代物にはならないのです。私が以前Twitterで述べた実証の蔑ろにしてはいけないという言葉の真意はここにあります。
そして、その説明には必ずevidenceが必要となります。evidenceを求めるためには様々なviasも考慮した上で、再現性のあるmaterial/methodの構築から必要になり、理論の確立には膨大な時間と知識と設備が必要となるはずです。そういう点でスポーツ科学の分野においても、卓球関連の、学術的に表にでてくるものが極めて少ない現状において、確立した体系だった理論は存在しないということになります。あくまで
一仮説とした提唱したもの
というスタンスになるはずです。この概念を理解できなければ、そもそも科学的な視点には立ちきれていないかと私は考えます。
つまり、先の理論派 vs 感覚派 論争のほとんどは
理屈派 vs 感覚派
となります。
次に、理屈派についてもう少し考えてみます。理屈とは、「物事の筋道、道理」の意味ですが、そこに科学的かどうかは言及されていません。さらにいうと「無理につじつまを合わせた論理、屁理屈」という意味にもなります。
理屈というのは物事の筋道、道理を説明する、つまり言語化していれば理屈を述べていることになります。そこに整合性があるかどうかは、実は関係ないことが言葉の意味からも伝わるかと思います。つまり、理屈派 vs 感覚派というのは
客観的に(科学的)言語化した説明(真偽は問わない) vs 主観的に言語化した説明(真偽は問わない)
と置き換わります。徐々にですが、この論争はあくまでアプローチの仕方の問題だけなのであって、当初のような大きく二極化する構図ではないのではないかと感じる方も出てきているかと思います。
では客観的に言語化された説明の真偽はいかほどでしょうか。ここで時事ネタの渦中の人であるA氏の考察動画に言及することになります。長くなったので次回に続きます。
更新頻度が劇的に増えるかと言われればその限りではないですが、時々このように執筆しようかと思っているので、皆様も是非茶々をいれてあげてください。
本内容は、2023年6月17日にスペースで発信した上記タイトルの内容をまとめたものになります。スぺ―スで発信した内容が主となりますが、口頭でのlive発信は、どうしてもその場の流れを汲んで発信内容を流動的に変更していること、そこに論理の破綻を起こす可能性があるため、今回文章としてまとめることとしました。(スペースでは3時間程度発信していました。バルサミコには少々話す内容を聞いていましたが、その他は全て完全アドリブでした。)
① 理論と理屈について
本ブログは2017年から、「バルサミコ酢の美味しさを語る」が2016年頃から開設されました。卓球技術の言語化、ひいては各技術を包括する理論の構築を目的としたブログでした。起源論を唱えるつもりもないですし、実際起源ではありませんが、開設当初はそのようなアプローチで考察を深める方は少なかったように思います。
最近はネットを用いて安易に様々な知識を得られることができ、それに伴って卓球の技術/指導を論理的に説明しようとする方が非常に増えました。主観ですが、これは現代人の傾向の一つと思われる「効率化」という観点から生まれた流れなのかと感じています。効率よく普遍的に教えようとした際に主観的な視点のみならず客観的な視点からアプローチする。その客観的な視点の主になるものが、物理学などの「科学」となることは当然の流れだと思います。スポーツ科学分野が近年急速に発展しているということも、その流れの背景にあるのでしょう。
ただ、その中で「効率化」を過度に重視するあまり、従来の主観的な視点を重視する指導法(いわゆる感覚派)を下にみてしまう方が一定数出現してしまいました。
科学的に説明できる事象(理論派)なのだから、主観的に語る感覚派の手法は時代遅れだ/間違っている(特に主観的な指導の内容が自身の主観と一致しなければ尚更)
これが直近で話題になっている理論派 vs 感覚派 の大まかな背景だと思います。
そもそも「理論」とはなんでしょう?類似した言葉として「理屈」がありますが、これとの違いはなんでしょう?
https://chigai-hikaku.com/?p=15698
このHPによると、理論は「個々の現象を法則的、統一的に説明できるよう、筋道を立てて組み立てられた知識体系」、理屈は「物事の筋道、道理」と記載されています。3次資料を基にしましたが、この意味合いで特段問題ないでしょう。
ここでなぜ「理屈」という言葉を出したかというと、世に出回っている卓球理論のほとんどは卓球技術を説明するための理屈に過ぎないと考えるからです。
巷にあふれている卓球理論のほとんどは一部の技術のみにfocusをあてたものであり、体系立って説明しているものとはほど遠いものになります。あくまで「一技術を科学的に説明しようとしているもの」に過ぎず、そもそも卓球の各動作を体系立って説明しようとアプローチをしている方がほとんどいないのです。比較的理論的に説明しようとしているものとしては、4スタンス理論や平岡氏が提唱するCC理論やスパイラル理論くらいでしょうか、もちろん我々の3hit理論も体系立って説明するスタンスをとっております。
理論の作られ方として、非常に簡易的にまとめると、
机上論 → 実証 → 理論の構築
の流れになるかと思います。そして理論として発展させようと思うと、各事象の全てを説明する必要があります。つまり、理論派が否定する主観的な事象であっても、それを包括するように説明しようとしなければ理論と呼べる代物にはならないのです。私が以前Twitterで述べた実証の蔑ろにしてはいけないという言葉の真意はここにあります。
そして、その説明には必ずevidenceが必要となります。evidenceを求めるためには様々なviasも考慮した上で、再現性のあるmaterial/methodの構築から必要になり、理論の確立には膨大な時間と知識と設備が必要となるはずです。そういう点でスポーツ科学の分野においても、卓球関連の、学術的に表にでてくるものが極めて少ない現状において、確立した体系だった理論は存在しないということになります。あくまで
一仮説とした提唱したもの
というスタンスになるはずです。この概念を理解できなければ、そもそも科学的な視点には立ちきれていないかと私は考えます。
つまり、先の理論派 vs 感覚派 論争のほとんどは
理屈派 vs 感覚派
となります。
次に、理屈派についてもう少し考えてみます。理屈とは、「物事の筋道、道理」の意味ですが、そこに科学的かどうかは言及されていません。さらにいうと「無理につじつまを合わせた論理、屁理屈」という意味にもなります。
理屈というのは物事の筋道、道理を説明する、つまり言語化していれば理屈を述べていることになります。そこに整合性があるかどうかは、実は関係ないことが言葉の意味からも伝わるかと思います。つまり、理屈派 vs 感覚派というのは
客観的に(科学的)言語化した説明(真偽は問わない) vs 主観的に言語化した説明(真偽は問わない)
と置き換わります。徐々にですが、この論争はあくまでアプローチの仕方の問題だけなのであって、当初のような大きく二極化する構図ではないのではないかと感じる方も出てきているかと思います。
では客観的に言語化された説明の真偽はいかほどでしょうか。ここで時事ネタの渦中の人であるA氏の考察動画に言及することになります。長くなったので次回に続きます。
コメント
コメント一覧 (4)
コメントありがとうございます。
難しいところで、人間が動くだけで様々な交絡因子が生じます。なので、提唱している理論通り動いても入らないことはあります。理論はあくまで机上論なので、実際に入ってないからといって彼の理論が間違ってるとは言えないです。
ただ、理論的にあり得ないものは実証でもあり得ない。実証が違っても理論が違う証明にはならないですが、理論が違ったら実証も必ず間違う証明になります。
本件は、現代の物理学の設定では起こり得ない事象を述べていたからこそ、追加の条件付や他に考えていることを聞いていた次第です。おそらく聞くことはできなさそうです。
彼は理論と実証の関係性が分からないようですし、少なくともこの短時間が理解することもできないでしょう。
言葉の定義付や基本概念をしっかりしないとここまで拗れてしまう、いいロールモデルになったなと感じています。
そうですね。日常生活では特段気にしなくても良いと思いますが、こと科学について論じる時には多少気にかけていただいた方がいいと思います。もちろん、適当でいいよーっていうおおらかな科学者もたくさんいますがw
ひっくり返しているということが分かれば、論調のカラクリもわかってくると思います。なかなかややこしいんですよね。