1/n
2/n
もう少しゆっくりと書きたかったですが、案の定反響が大きかったのでここだけはさっさと書いておこうと思います。急いで書いているので、6月17日のスペースでの論旨と現時点での感情が少々混じります。
③ 批判的吟味と本論争の非妥当性
前回、科学的妥当性について述べましたが、私の先の論調は批判的吟味に近いスタンスを取っています。2/nでも何度か言葉に出したものです。
批判的吟味とは、入手したエビデンスの結果を鵜呑みにするのではなくバイアスを含んでいないかどうかを判断するための手続きのこと(参考HP)です。つまり、それが実証されているものだとしても、本当に妥当性があるのかどうかを批判的なスタンスをとって考察する、これは理論的に物事を考えるにあたって極めてよく遭遇するものです。現在私は臨床研究を複数行う医学者として研鑽を積んでいますが、毎日上司にこっぴどくやられております。
一定のevidenceがある事象ですらこのようなスタンスをとられるのですから、十分なevidenceが得られない/得られているかわからない事象に対しては、このスタンスを取られるのは「自明」です。
2/nを投稿した際、彼は半ば思考放棄したかのように(彼にとっては違っても、こちらからはそう見えてしまいました)あれやこれやと論旨とずれる内容を述べていましたが、私はこのスタンスをとっているだけなので、それなりに納得できるよう説明していただければいいだけなのです。基本的にevidenceを得られていない推論であることなんぞ百も承知なので、無理のない論拠とlimitationを理知的に説明すれば済む話なのです。そこに非論理的な持論を他者が分からないような形で混ぜて、それを科学的に自明の事象と述べているから指摘しているだけです(大学教育でも一部の人しか学ばない流体力学をあの簡易的な説明のみで自明のものとするのは流石に無理があるかな?専門家の人いたら教えてください)。私は彼を非似理論派と陥れるつもりはなく、むしろ今までの言論を鑑みれば、是非答えてほしい内容だと期待しています。
1/nで述べた通り、専門性の高いスポーツ科学分野でさえ、卓球の技術や動作を体系立って説明する理論は存在しません。その中で我々非専門家が少しでも体系だった理論を形成するための一つとして、一つずつ技術考察を進めていき、その共通項を見つけることで理論形成を行うという手法が挙げられます。つまり、全ての感覚、理屈が今後理論に繋がりうるということになります。そして、批判的吟味というのは現行の全ての感覚派、理屈派、理論派すべてが対象となり、全ての考察に当てはめることができるということです。これは私も意見も例外ではなく、適宜意見くださいと自分から発言するのはこのスタンスを皆さんにとってもらいたいからです。
その点では、彼の正しさが表れてきます。例えばこの動画。
https://www.youtube.com/watch?v=MgVgDaaWdxU
正中線上で打球すると言語化したのにも関わらず、実際には正中線上とは程遠い位置で打球しております。彼の指摘は至極当然のものでしょう。他のいくつかの動画をみても他者の言語化された理屈の欠点、疑問点を挙げており、これは批判的吟味のスタンスをとっていることに他なりません。
彼だけに限らず技術考察を行う方のほとんどの方は、なんらかの形で技術を「言語化」して表現しています、当たり前です。それが理屈的か感覚的かはさておき、その技術動画を推敲して投稿している方はどれくらいいますか?実際に言語化した説明と実際に残った映像に相違がある場合、どのようにしてその相違をつなぎ合わせるように説明していますか?
おそらく多くの方はしていないと思います。これは先述の彼の思考放棄となんら変わらず、やはり批判的吟味の対象にならざるを得ないのではないか?様々な方が参考にしてみているのだから、もう少し理知的な、整合性のとれた内容にすることはできないのか?理屈を述べていても、それが屁理屈になっていないか?
これは私の近年の卓球youtube動画における警鐘です。物理学を用いたり、骨理学を用いたり、感覚を重視したり、おちゃらけたり、その表現方法は色々あるのでしょう。表現法は各々得意な形があるのでそこに優劣はありません。ただ、あまりにも言語化した内容と映像化した内容が解離してしまえば、その実情がどんなに優れたものであっても全く意味を成さないものとなります。それを互いに指摘し合うことはなんら悪いことではありません。理知的でありたいのであれば、短絡的にその指摘に反応する必要はないかと思います。
そして表現法に優劣がないということは、対立する必要もないのです。あくまで理知的であるかどうか理屈において重視されるべきであり、理論がよいか感覚がよいかは全く別問題になります。そもそも理論の行きつく先は感覚との対立ではなく感覚を包括すること、つまり人間を相手にする以上ある程度主観的な感覚という交絡因子があることは至極当然であり、それらを内包した上で理論形成が行われるべきだと考えます。
つまり、理論派 vs 感覚派 という論争はそもそも意味を成しておらず、理屈を述べようと、感覚で述べようと、そこに整合性がなければ何も意味を成さないということになります。彼が感覚派を否定していないという論旨はここに起因する内容ですし、逆に感覚派も理論派を否定しているわけではないこともわかるかと思います。もちろん、彼の考察についても整合性に疑問符が残るところは指摘していますが、彼の努力や考察自体を否定するつもりはありません。
そういう点では、対立構造を持ち込んでプロレスにしてしまったMコーチは、少しやりすぎたのだろうなと感じてしまいます(笑)
この批判的吟味とは、あくまで論理的に妥当かどうかを説いているだけであって、そこに個人の感情などは一切ありません。あくまで考え方としてどうなのですか?と問うだけのものになります。そこに個人の誹謗中傷が混ざってしまうことはその本質ではありませんし、今回の論争でそのような事態になってしまったということは、非常に残念なことです。当事者たちももちろんだが、その聴衆の方々もその本質を知らなければならないのではと感じざるを得ません。
もちろん、今まで過剰な表現を用いて批判的吟味の本質に反しながら弁論していたのはほかならぬ彼であり、今後は短絡的に反発せずにしっかりと他者の意見を受け入れてくれたらと思う、科学者の端くれとしての思いでもあります。
次回以降はこれらの理論を前提にして指導について述べていきたいと思います。後1-2回くらいで終わりそうです。長文失礼しました。読みづらい箇所や整合性が取れていない箇所があれば教えてください。割と眠いです。
2/n
もう少しゆっくりと書きたかったですが、案の定反響が大きかったのでここだけはさっさと書いておこうと思います。急いで書いているので、6月17日のスペースでの論旨と現時点での感情が少々混じります。
③ 批判的吟味と本論争の非妥当性
前回、科学的妥当性について述べましたが、私の先の論調は批判的吟味に近いスタンスを取っています。2/nでも何度か言葉に出したものです。
批判的吟味とは、入手したエビデンスの結果を鵜呑みにするのではなくバイアスを含んでいないかどうかを判断するための手続きのこと(参考HP)です。つまり、それが実証されているものだとしても、本当に妥当性があるのかどうかを批判的なスタンスをとって考察する、これは理論的に物事を考えるにあたって極めてよく遭遇するものです。現在私は臨床研究を複数行う医学者として研鑽を積んでいますが、毎日上司にこっぴどくやられております。
一定のevidenceがある事象ですらこのようなスタンスをとられるのですから、十分なevidenceが得られない/得られているかわからない事象に対しては、このスタンスを取られるのは「自明」です。
2/nを投稿した際、彼は半ば思考放棄したかのように(彼にとっては違っても、こちらからはそう見えてしまいました)あれやこれやと論旨とずれる内容を述べていましたが、私はこのスタンスをとっているだけなので、それなりに納得できるよう説明していただければいいだけなのです。基本的にevidenceを得られていない推論であることなんぞ百も承知なので、無理のない論拠とlimitationを理知的に説明すれば済む話なのです。そこに非論理的な持論を他者が分からないような形で混ぜて、それを科学的に自明の事象と述べているから指摘しているだけです(大学教育でも一部の人しか学ばない流体力学をあの簡易的な説明のみで自明のものとするのは流石に無理があるかな?専門家の人いたら教えてください)。私は彼を非似理論派と陥れるつもりはなく、むしろ今までの言論を鑑みれば、是非答えてほしい内容だと期待しています。
1/nで述べた通り、専門性の高いスポーツ科学分野でさえ、卓球の技術や動作を体系立って説明する理論は存在しません。その中で我々非専門家が少しでも体系だった理論を形成するための一つとして、一つずつ技術考察を進めていき、その共通項を見つけることで理論形成を行うという手法が挙げられます。つまり、全ての感覚、理屈が今後理論に繋がりうるということになります。そして、批判的吟味というのは現行の全ての感覚派、理屈派、理論派すべてが対象となり、全ての考察に当てはめることができるということです。これは私も意見も例外ではなく、適宜意見くださいと自分から発言するのはこのスタンスを皆さんにとってもらいたいからです。
その点では、彼の正しさが表れてきます。例えばこの動画。
https://www.youtube.com/watch?v=MgVgDaaWdxU
正中線上で打球すると言語化したのにも関わらず、実際には正中線上とは程遠い位置で打球しております。彼の指摘は至極当然のものでしょう。他のいくつかの動画をみても他者の言語化された理屈の欠点、疑問点を挙げており、これは批判的吟味のスタンスをとっていることに他なりません。
彼だけに限らず技術考察を行う方のほとんどの方は、なんらかの形で技術を「言語化」して表現しています、当たり前です。それが理屈的か感覚的かはさておき、その技術動画を推敲して投稿している方はどれくらいいますか?実際に言語化した説明と実際に残った映像に相違がある場合、どのようにしてその相違をつなぎ合わせるように説明していますか?
おそらく多くの方はしていないと思います。これは先述の彼の思考放棄となんら変わらず、やはり批判的吟味の対象にならざるを得ないのではないか?様々な方が参考にしてみているのだから、もう少し理知的な、整合性のとれた内容にすることはできないのか?理屈を述べていても、それが屁理屈になっていないか?
これは私の近年の卓球youtube動画における警鐘です。物理学を用いたり、骨理学を用いたり、感覚を重視したり、おちゃらけたり、その表現方法は色々あるのでしょう。表現法は各々得意な形があるのでそこに優劣はありません。ただ、あまりにも言語化した内容と映像化した内容が解離してしまえば、その実情がどんなに優れたものであっても全く意味を成さないものとなります。それを互いに指摘し合うことはなんら悪いことではありません。理知的でありたいのであれば、短絡的にその指摘に反応する必要はないかと思います。
そして表現法に優劣がないということは、対立する必要もないのです。あくまで理知的であるかどうか理屈において重視されるべきであり、理論がよいか感覚がよいかは全く別問題になります。そもそも理論の行きつく先は感覚との対立ではなく感覚を包括すること、つまり人間を相手にする以上ある程度主観的な感覚という交絡因子があることは至極当然であり、それらを内包した上で理論形成が行われるべきだと考えます。
つまり、理論派 vs 感覚派 という論争はそもそも意味を成しておらず、理屈を述べようと、感覚で述べようと、そこに整合性がなければ何も意味を成さないということになります。彼が感覚派を否定していないという論旨はここに起因する内容ですし、逆に感覚派も理論派を否定しているわけではないこともわかるかと思います。もちろん、彼の考察についても整合性に疑問符が残るところは指摘していますが、彼の努力や考察自体を否定するつもりはありません。
そういう点では、対立構造を持ち込んでプロレスにしてしまったMコーチは、少しやりすぎたのだろうなと感じてしまいます(笑)
この批判的吟味とは、あくまで論理的に妥当かどうかを説いているだけであって、そこに個人の感情などは一切ありません。あくまで考え方としてどうなのですか?と問うだけのものになります。そこに個人の誹謗中傷が混ざってしまうことはその本質ではありませんし、今回の論争でそのような事態になってしまったということは、非常に残念なことです。当事者たちももちろんだが、その聴衆の方々もその本質を知らなければならないのではと感じざるを得ません。
もちろん、今まで過剰な表現を用いて批判的吟味の本質に反しながら弁論していたのはほかならぬ彼であり、今後は短絡的に反発せずにしっかりと他者の意見を受け入れてくれたらと思う、科学者の端くれとしての思いでもあります。
次回以降はこれらの理論を前提にして指導について述べていきたいと思います。後1-2回くらいで終わりそうです。長文失礼しました。読みづらい箇所や整合性が取れていない箇所があれば教えてください。割と眠いです。
コメント
コメント一覧 (2)
理論を語っても体現できないなら意味はない。
ご指摘ありがとうございます。
どう言った形であれ、卓球が上手くなれば選手からすればどうでもいいのですから、そういう意味では仰る通りだと思います。
あくまで指導を行う際の思考過程が本件のendpointのつもりでした。分かりづらくて申し訳ありません。
さかがみさんが仰ることは、卓球が上達することをendpointとしてご意見されており、私の話とはどうしても論旨がずれてしまうのでしょう。
ただ、上手くなければ意味がないというご意見は、私にとっても非常に耳が痛い言葉なので、今後しっかり練習に励みます。ありがとうございます!